起業家、専門職に就いている方、また様々な活動をしている方へのインタビューやレポートを通して、いろいろな「生き方」をご紹介します。

ヒロシマ part5

3月初め、ヒロシマに赴き、
part2~part4でご紹介した「ヒロシマの母の遺産」の著者、石田明さんの実姉、文子さんへのインタビューを実現してきました。

石田明さんは、
お兄さん、姉の文子さん、石田明さん、妹さんの4人兄弟です。

原爆投下時、文子さんは20歳で、小学校の先生をしていて、爆心地から7キロほど離れた職場である戸坂(へさか)で被爆しました。
また、大量の放射能をあびた被爆者の看護にあたったので、被爆者から発せられる放射能をもあびたと思われます。


ご自宅へ伺ってのインタビューでした。
元々丈夫だったことが幸いしてか、文子さんは現在89歳、とってもお元気で温かくて素敵な方です。

このインタビューは、文子さんが体験した、文子さんの真実です。

※1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。
何故、広島に投下されたかというと、アメリカが原爆の効果を正確に測定できるよう、直径3マイル(約4.8キロメートル)以上の市街地を持つ都市の中から投下目標を選び、広島、小倉、新潟、長崎が候補に選ばれ、その中で唯一、広島には連合国軍の捕虜収容所がないと思っていたからということです。

************************


――とてもお若いですね。

「32年くらい教職をしていたので、その縁で知り合った方たちとの交流が今でもありますからね。それが私の励ましになっていますね」

――それは大きいと思います。人からの愛情というのは大きなパワーになりますよね。


終戦を告げる昭和天皇による玉音放送

勝つまでは我慢するんだよ、というのが、家でも学校でも言われていました

――当時の生活について伺いたいのですが。

「お蔭様で89歳にもなれば、子供の頃から戦争でした。
日清戦争があって、最後は16歳の時に大東亜戦争(太平洋戦争)でした。戦争の中で育ったという感じでした。
農家をやっていたので、食べるものはまあまあそれほど困るということはありませんでした。でも、農家だったから野菜はあるとは言っても、町よりはあるというだけで、まずは兵隊さんにあげて、本当に必要な分だけを残して、今月はこの米だけでやりなさいといわれたら、どうにか量を増やすようにいろいろ入れて、親は我慢して子供に食べさせて。
今のようにあれが食べたい、これは食べたくないなんて文句をいうことはありませんでした。うさぎ狩りをしたんですよ。食べるために。
物の不自由さもありました。全部、軍の方に回さなくてはならなかったので。
品物がない時代でした。全部配給制で。教科書なども、上の年の子が使ったら年下にあげるという。ボロボロになっても。
靴も配給制ですから、穴が開いても買うことができません。そしたら田舎だから草履を作ってもらって、雨が降ったら下駄ですね。
食べるものも配給制で、衣類も配給制でした。女の子でも男の子の服を着て、小さくなったら母が自分の着物を使って継ぎ足して。
母は持っていた着物を全部、子供が着るものに使いました。ミシンはなかったので、全部手縫いで。自給自足でした。靴下は穴があいたら繕って。
穴があいた服もつぎはぎして。最近ではわざとそういう服を着るようですが」

――破れたジーンズなど、履きますものね。

「うちらは当て布というか、破れたところを覆って縫い付けて、それが当たり前でした。
華やかな色は使わず、地味な色ばかりでした。
カーキ色とか、男性は詰襟ですね。
とにかく生きるということでしたね。勉強も、勉強よりも働いて生産する。農繁期には学校が一週間くらい休みになったんです。男は戦争に行っているので女と子供だけなんですが、女の子でも高学年になれば力がありますからね。
(戦争に)勝つまでは我慢するんだよ、というのが、家でも学校でも言われていました。
でもあれだけ不自由なのに、不足を言ったことはないです。
今のように、これも買ってあれも買って、なんていう子どもはいませんでした。
みんな心をひとつにして、“勝つまでは”と、我慢していました」

原爆ドーム
原爆ドーム


(お菓子とお茶を出して頂く)
――当時はお菓子など、甘いものはありましたか?

「ないですよ。おやつと言っても、生のイモやニンジンなどをかじって」

(石田明さんの著書を頂くことになり)
「資料館(広島平和記念資料館)に行って、“石田明”と検索して頂けば、出てくると思います。教師をやっていたので、呼ばれて講演もやっていたんです。(著書の)内容の様なことを話していたんではないかと思うんですが」

――第一章が「母とわたし」になっていますが、お母さんも被爆なさったんですか?

「(原爆投下後の)市内には入っていますね。親戚を探しに」


印が爆心地。爆心地と広島駅の間にお兄さん、弟さんが被爆した「八丁堀(はっちょうぼり)」、中央に文子さんがいた「戸坂(へさか)」、右上が実家の「狩留家(かるが)」

――原爆投下時のお話を聞かせて頂けますか?

「あの時は外で朝礼をしていました。
夏休みでもあの頃は学校に行っていて、高学年の生徒たちが馬の飼料のための草を刈りに行くというので校長先生がその注意を話していたんです。
落ちた時は、耳と目を押さえて、その場に伏せました。「伏せ!」という号令で、伏せる訓練を日ごろからしていました。
近くに防空壕があれば入る、なければ耳と目を押さえてその場に伏せるんです。耳は大きな音で聞こえなくなってしまうかもしれないし、目は爆風で飛び出る危険があるからです。
教室だったら、机の下に入るのですが、外だったので。
防空壕に入れる者は入るのですが、私たちは入る余地がなかった」

――落ちた時のキノコ雲というのを写真でみましたが、あれはご覧になりましたか?

「いえ、みてないです。
子供たちのことが気になっていたので、キノコ雲はみていないんです。
兄と弟も電車の中でしたから、みていないと思います。二人は八丁堀というところにいて、近すぎたというのもありますし。
不思議なことに兄も弟も無傷でした。
よく生きられたと思うんですけどね。無事だったというので、私も喜んでいたんですが。でも傷は負っていなくても駄目でしたけどね、その後、症状が出ましたので。
兄と弟は同じ電車の中でした。二人は宮島に祈願に行こうとしていたんです。母の帯で縫った袋に軍刀を入れて持って。当時は一人が一機に乗って、敵にぶつかって爆破するという攻撃をしていました。弟もそこにいて。後から考えれば、家族に別れを言いに来たのかもしれません」

――特攻ですか?

「そうですね。
二人は八丁堀から戸坂(へさか)まで来ました。私は当時戸坂の学校におったんです。
弟は自分で志願して兵隊になって、軍刀を持っていましたから、『兵隊さん助けて』って、たくさんの被爆者の方がついてきていたんですね。その方たちを戸坂に向かう途中の家に頼んで、預けながら、二人で私に無事を知らせに来て、家に帰る途中で弟が嘔吐して倒れたんです。
弟は一晩、近くの家に置いてもらい、兄は親に報告するため先に帰って、翌日迎えに来るからってことになったんですね。
私は(職場の)小学校から被爆者の方たちの看病で10日間くらいは戻れませんでした。患者さん(被爆者)たちの傷口の蛆をとってあげたり、水を飲ませてあげたりしていました。便所に連れて行ってあげたり。
電車の中で被爆した兄も弟も、すぐには症状が出なかったんです。
何日かして髪の毛が抜けて、血の斑点が出てきて、歯茎もどす黒くなってきて。弟は嘔吐したことで毒が出たのかもしれません。
兄はその後、1カ月ほどで亡くなってしまいましたから」

――落ちた時には、「原子爆弾」だということはわかっていたのでしょうか?

「いえ、全く。
今のような情報はまるでなかったので」

――では、「どうしたんだろう? 普通の爆弾とは違う」という感じでしたか。

「それもないです。とにかく教室も壊れてしまって、天井も落ちて、ガラスも割れていて、預かっている子供たちを早く家に帰さなければということでいっぱいでした。
子供たちもあの後、歩いて家に帰っているんですからね。放射能とかいう情報はなかったもので。今考えれば恐ろしいことです。
戸坂は逃げてきた被爆者が初めて、入れる建物があったと思う場所だったんでしょう。そこまでの道のりにある建物はメチャクチャだったでしょうから。
逃げている道中の家で入れるところには入ってもらって、その家の人は世話をしたそうです。田舎の家だから、母屋のほかに納屋があって、その間に土間があるんですが、茣蓙をひいてでも寝てもらって、目の前で倒れている人を放ってはおけませんから。
入れるところには、被爆者の方が這うように入っていって、屋根のあるところは、学校の渡り廊下もどんどん人でいっぱいになって。その方たちがどんどん亡くなっていって、死人(しびと)の山がどんどん増えて行って。
水を飲ませてはいけない、という話があったのですが、どんどん亡くなっていくので、もう飲ませてもいいということになって、お湯を冷まして飲ませてあげるのですが、本人の手では飲めないんです。火傷で皮膚がぶらさがっているような状態で

――資料館で見ました。

「そういう状態の人が、ぞろぞろ歩いてくるんです。
歩けなくなって、そこで休む人が増えて、寝る間もないほど看病して、家族が迎えに来てもわからないんです。みんな真っ黒で、目だけぎょろぎょろしていて。だから教室に入ったら、どこの誰さんと呼びなさいと言いました。
着ているものもみんな配給制の同じものなので区別がつかないし、顔を見てもわからないんです。まだ返事ができるのはいい方で。
看病して元気になってくれるのならいいのですが、次々に亡くなってしまって。
「お姉ちゃん、水……」「お母さん、水……」
と、私はお姉ちゃんになったり、お母さんになったりしながら、口に水を含ませてあげて。
起きることもできないのでね。一旦、横になったら、ぐったりしてもう起きられなくなってしまう。気を抜いたらダメなんですね。
今でこそ言えますが、当時は20歳でしたが、男性が便所に行くのも手伝いました。あの頃はみんなボタンなんです。チャック(ファスナー)は戦後のものなので。火傷で手が使えないので、ボタンをはずすのを手伝ってあげました。よく出来たなと思います。でもなんて言っていいのか、恥ずかしいだのなんていうことではなくて……。
まだ手が使える人はいいんです。
夏だったので、肌が出ていたんですね。服を着ている部分はいいとしても、肌が出ている部分はみんな火傷してしまって。上半身は一枚しか着ていない状態でしたので、上半身はもう火傷で。
今で言ったら高校生くらいの男の子だったと思うのですが、
『お姉ちゃん、仇をとってね』
と言われたのが忘れられないんです


――仇というのは敵に勝ってね、という意味ですか?

「そうですね、自分がやられたのは分かっていたと思いますから、相手をやっつけてね、という意味だったと思います。
10日くらいでやっと教室があいてきて、夏休みだったので、授業らしいことはしないで、飼料の草を刈ったり何らかの形で働いていました。
気が利く子は竹でピンセットみたいのを作ってきて、蛆をとってあげたり。
普通だったら、見るのも嫌だと思うのですが。みんなが必死でした。せざるを得ないところに追い込まれたというか。
近くの学校も大変でした。焼け野原といいますが、全部焼けてしまって。弟も逃げてくる途中で出会った焼けただれた母親など、助けられなかった被爆者のことをずっと残念で仕方がないと言っていました。
連れてこられる人は連れてきたというんですが、もうどうしようもない人たちもたくさんいて。
地獄を見たことはないのですが、生き地獄ですね

原爆ドーム
原爆ドーム


福島の原発事故があって、今あらためて思い知らされているというのがあります。

――あれが原子爆弾だと知ったのはいつでしたか?

「今のようには情報は入ってこないし、今は福島の件についても住民は避難していますが、私たちはずっとここに住んでいて、当時は夏休みもずっと学校に通っていましたし。
あくる日に、家族を探しに市内に入っている人もいましたし、立ち入り禁止になるどころではなかったです。
こんなことは二度とあっちゃいかんという気持ちはありましたが、あんなに恐ろしいものだったなんて、ずっと知りませんでした。
認識不足だったというか。それこそ、初めてのことでしたし。
知っていたら、ここにも住んでいられなかったと思うし。知らんほど強いものはないというか、避難しろというのもありませんでしたし。
福島の原発事故があって、今あらためて思い知らされているというのがあります。
あの頃は知識も何もなくて、避難しろとも言われず、誰も助けにも来てくれず、みんな自力で再建しましたから」

――それは他では原子爆弾が落ちたと知っていたから、誰も手伝いにこなかったのでしょうか?

「終戦して、他も混乱していて、それどころではなかったのだと思います」

慰霊碑
平和記念公園の慰霊碑

何と言ったらいいかわからないのですが、悔しいというか、どうしたらいいのかわかりませんでした。

――終戦になった時、どうでしたか? 敗戦したと聞いて……。

「そうですね、切り替えが……。
玉音放送という天皇陛下の放送(昭和20年/1945年8月15日正午のラジオ放送)があった時には、それまで軍国主義の教育をしてきた教師たちは机を叩いて、心の中の葛藤を追い出しました。泣きながら、何と言ったらいいかわからないのですが、悔しいというか、どうしたらいいのかわかりませんでした。
教科書に書かれているアメリカを敵視するような箇所はみんな墨で消しました。
どの学校にも奉安殿(ほうあんでん)というのがあって、教育勅語(1890年(明治23)10月30日に発布された,教育の基本方針を示す明治天皇のことば)と天皇陛下の写真が入っていたんです。式の時にはそこから校長先生が私たちが頭を下げている間、白手袋で教育勅語を持って式場に行くという儀式もありました。奉安殿は校庭に入ったすぐのところにあって、小さい頃、私たちは毎日、奉安殿に礼をしてから教室に行きました。
二宮金次郎の像と奉安殿はペアでどこの学校にもあったんですね。
戦後は天皇陛下の写真が飾られていたのも、はずされました。
奉安殿も、どこの学校からもなくなりましたね。二宮さんが残っているところはありますが」

橋の上から原爆ドーム
橋の上からの原爆ドーム

あのなんだかわからないもの(原爆)のせいで、悲劇がいろいろな形で出ました。

――戦後の生活は変わりましたか?

無我夢中でしたね。
9月に入っても、死人が出て、どうにもできなかったです。

落ちている天井を修理しなくちゃというので、みんな自力でやりました。
勉強が出来る状態にしなくては、と。若い男たちはいなかったので、そのほかの残っている者たちでやりました。
今のように市がやってくれるべきだとか、やったら損になるとか、そんなことを言う人はいませんでした」

――損得を考えてしまうんでしょうね、今は、それをやるもやらないも。

戦争孤児といって、疎開していた子供たちが帰ってきたら、市内が全滅していて家族がみんな亡くなっていたということもたくさんありました。
戦争孤児ということも、隠している場合が多かったです。就職や結婚に差支えがあるということで。
被爆者であることを隠している人もいました。
あのなんだかわからないもの(原爆)のせいで、何が起こるかわからないということで、腫れ物に触るような感じでした。悲劇がいろいろな形で出ました。わからないので。何が何だか。被爆したといったら、結婚にも関わるようになって。結婚しても、離縁されたり。
長生きしないだろうということは言われていても、詳しいことは何もわからずに、ちょっと元気になると、普通に動いて生活するし。気づかないから怖いですよね。何も知らないから出来たことですね」


――戦後も学校に通われていたんですよね。

「電車も駄目になってしまったので、県道を歩いて学校に通うのに母がポケットに入れて持って行けるような砂袋を持たせてくれました。だんだんと進駐軍(戦後、日本を占領した連合国軍。主体は米軍)が配備されましたからね。20歳の女性なので、もし敵兵が来たら、目をめがけて投げなさい、と。女性なのに男のフリをするために丸坊主にした人もいましたしね。
でもそんなに危険な目に遭うことはありませんでした。遭った人もいたのかもしれませんが、私の周りではありませんでした」

――映画などで見るような、終戦後にアメリカ兵が来て、子供たちにチョコレートをくれた、などということは本当にありましたか?

「私は知りませんが、あったと思います」

原爆ドーム横から
原爆ドーム横の川端から

人間の欲望はすごいですからね。人間の耐える力とか、力を合わせる力というのは素晴らしいと思うんですが。

――戦争を知らない世代に伝えたいことはありますか?

「あの頃はあんなに苦しくて、あんなに耐えてきたんだけど、自分から死にたいだなんていう人はいませんでした。それなのに今はなんで自分で死んでしまう人が多いのか」

――たぶん死んだらラクになれると思ってしまうのかもしれませんね。

「戦争に行ったら死ぬというのはありました。弟も16歳で志願して入隊しましたから。
国を守るためという信念があったのでしょうが。
戦争に行けない男子が低くみられてしまう時代でしたからね。生きて帰ることすら受け入れられないみたいな。
送り出すときに死んで来いとは言いませんけど、行ったら死んでしまうというのがありました。
でもそれは今のような自殺とは違いますし。
どういうふうに育てたらいいのか、わからないですね。
あの頃は、生まれて生きていてくれればいいというのがありましたからね。とにかく自分より長く生きてくれというのが」

――今はなんなんでしょうね、もっともっと、というか、私たちは、もっと夢を持て、もっと上を目指せ、ということを教えられてきたんですよね。本当は生きていて平凡でも毎日過ごせていられることが幸せなのに、それじゃダメだと刷り込まれていて、だからそれ以上できないといけないと思っていて、上に行けない人は挫けてしまうというか。

人間の欲望はすごいですからね。
欲望がいい方向に行けばいいんですけどね。
人間の耐える力とか、力を合わせる力というのは素晴らしいと思うんですが


――そうですね、耐える力や力を合わせるという点において、日本人は優れていると思います。戦後の焼け野原から立ち上がって、こんな小さな国が、世界でもトップクラスになるくらいに頑張ってきたわけですから、日本人の底力というのはすごいと思います。

原爆は人間が作ったんですからね。人間が作って、人間が殺されて。
今でもまだその研究がされているから、いつまた同じようなことが起こるのか。
弟はこれからまた広島のために活動していこうと言っていたんですが、寿命でしたね。次々に癌でした。亡くなる前には、子どもの麻疹のように全身に発疹がでました。塗り薬で少しずつ治って、でも最期は気力果てて肺炎でした」

――あらためて戦争について思うことはありますか?

「いつまでも敵味方という関係ではなくて――、
『仇をとって』
と言われたのは忘れられないのですが、それでまたやり返していたら戦いは終わらないですし。平和はこないですからね。

アメリカ人がみんなひどい人ばかりじゃないし、日本を好きでいてくれる人もいますしね。人間同士の付き合いをしていかないと。
人間の恐ろしさはありますが、また素晴らしさもあるし、人間には耐える力がありますから。
とにかく戦争は……、戦争はいけません


(2014年3月2日)

************************


今回お伝えしたのは、石田明さんの姉の文子さんの原爆体験の真実です。

Part1で私は、
『誰もが嘘を言っているわけではない。それは、その人にとっての真実。』
と書きました。

インタビュー中で文子さんは『あの頃は自殺を考える人はいなかった』と話されています。
しかし石田明さんの著書の中には、
『牢獄のような兵舎のなかで、自殺する兵隊も出てきた』
また被爆後、体調不良に悩まされ、
『これまでいく度、自分の健康を苦に、思ってはならない自殺を思い、死の予感でノイローゼになったことか』
と書いています。
石田明さんは、言えば心配させてしまうようなことは身内にすらお話しなかったということでしょう。

同じ時代を生きた姉弟であっても、「当時の自殺」という同じ事柄についての捉え方、感じ方はこのように違うのです。
そしてどちらのお話も、ご本人にとっては真実なのです。

だからこそ、ひとつの事柄であっても、ひとつのお話だけ聞いて判断するのではなく、その事柄を多角的に、客観的に見ることが必要になるのです。

『瀕死の男の子に“仇をとって”と言われたのが忘れられない、
しかしそれでまたやりかえしていたら、いつまでも平和にはならない』
とインタビューの中で語られていたのが心に強く残りました。

目の前で命の灯が消えていく、その遺された言葉は忘れられない、しっかり受け止めているけれど、それをそのまま表面に出して行動に移していたらまた目の前で起こっている悲劇を繰り返すことになってしまう……、
今、これからの平和な日々を守っていくために消化できない気持ちを抱えて生きていく――、
それは、平和を愛し、維持しようとする人間の中に存在する葛藤なのだと思います。
人間が生きていく上では必ずしも、こうだったからこうする、と計算式のようにしてはならないことがあるのです。

現代の日本は平和ボケしていると言われますが、
今の平和は、どのようにしてもたらされたのか、知ること、知ろうとすることは大切だと思います。
過去に何があり、今自分たちがどこにいて、どんな将来につなげていけばいいのか――、
それぞれの心で考えていくことが必要だと思います。

今回の広島の記事は、書くのも辛く、重いものでしたが、この事実を伝えなくてはいけない、という使命感で書きました。

お忙しい時間を割いて頂き、快くインタビューにこたえて頂いた文子さん、また文子さんをご紹介してくださった西田さんに心より深く感謝しております。ありがとうございました。

このブログ記事が、一人でも多くの方に、1945年8月6日に広島に落とされた原爆について、それがどのような悲劇をもたらしたかについて伝える役目を果たせたのなら幸いです。


<追記>
終戦後の9月、広島は昭和の三大台風のひとつに数えられる枕崎台風に襲われます。
当時は気象情報が少なかったことがあり、被爆状況の調査や被爆者の治療のため現地を訪れていた京都帝国大学から訪れていた調査班、治療を受けていた被爆者を含めた約100名が、その土石流の犠牲になりました。

原爆ドーム
原爆ドーム

広島の空
インタビューに伺う車中から、広島の空



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ヒロシマ part4

Part2part3に引き続き、
石田明さんの著書をもとにした、石田明さんの実体験をご紹介いたします。


**************



昭和22年(1947年)の夏頃から、石田さんのお母さんは寝込むようになりました。過労が原因とのことでした。
敗戦後の物不足の時代、石田さんは月給のほとんどをはたいて山羊を買い、栄養があるその乳をお母さんに飲ませました。
お父さんも妹さんもお嫁に行った、身ごもっていたお姉さんも、お母さんの具合をよくしようと必死でした。
お母さんは自らが死の床にありながらも、家族のことを気遣っていました。
そして、
「孫の顔も見ずに死ぬようなことがあっちゃあいけん」
というお父さんの思いもむなしく、昭和23年(1948年)11月14日、50歳の生涯を閉じました。

“自分が休暇で帰ってこなかったら、
兄も広島に出ることはなく、原爆に遭うこともなく、母も二人の看病疲れで倒れることもなかっただろう――“
石田さんは、罪の意識に胸が引き裂かれるようでした。



広島に投下されたのは開発当初の設計より短くしたためリトル・ボーイ(少年)と呼ばれた長さ約3メートル、重さ約4トンの原子爆弾でした。その爆発によって、広島は壊滅し20数万人の市民は殺戮されたのです。

破壊力の1つめは熱線。
爆心地の地表には瞬間的に数千度に及ぶ高熱が照射され、歩行していた市民は一瞬にして蒸発、溶解しました。
石田さんが被爆した爆心地から750メートルあたりでは、人間が炭のように焼け焦がされました。

破壊力の2つめは爆風。
風圧によって広島のビルは崩壊し、家屋は叩き潰されました。多くの市民は家屋の下敷きになり、熱線により引火した火の海に生身の人間が焼き尽くされました。
広島の7つの川は逃げてきた市民の屍で埋まりました。

破壊力の3つ目は放射能。
石田さんとお兄さんは無傷だったにもかかわらず、放射能の影響で頭髪が抜け、血を吐き、内臓を破壊されました。
お兄さんは9月2日に亡くなり、生き延びた石田さん自身もその後、健康の喜びを味わったことはありませんでした。

※引用※
人間は追いつめられたときにこそ、その本性があらわれるといいます。これまでのべてきたように、ヒロシマの母があの生地獄のなかでけっして放棄しなかったものは、自分の生んだ命を大切にし、その命をまっとうさせ、人間らしく育てたいという“愛”でした。まさにこの生地獄のなかで、ヒロシマの母たちは人間としての価値を実証したといわなければなりません。


ヒロシマの母に学び、そこから学んだヒロシマの心、願いとは何か、
石田さんは次のように書いています。


第一に、人間の生命の尊厳。
人間の生命がこれほど冒涜された事実はありません。

第二に、人間の生きることの意味をきびしく問い詰めたこと。
人間が作り、人間が投下した原爆に人間が犠牲になりました。
人間にとって科学や技術が、人間が滅亡するものであってはならない、より価値高く生存しぬくための営為でなければならない。

第三に、人間の愛。
石田さんは劫火の中を逃げまどいながら、教え子をかばい命を絶って行った教師たち、わが子を守るためにわが身を捨てた母親、父親たちを見ました。
原爆と言えども、人間の愛は消し去れなかったのです。



戦前の教育は生命の大切さなど教えなかったといいます。むしろ「死」を賛美したものでした。
そういった教育を受けた石田さんは16歳にして少年航空兵に志願し、戦場に行って手柄を立てようと思いました。

子育て、教育は、その原理、思想を間違えると、人間を野獣にしてしまうのです。


石田さんは、教師として子供たちと共に学び、“学級総会”を連日開き、そこから得た素晴らしい生き方を「学校憲法、人間宣言」として制定しました。


「学級憲法、わたしたちの人間宣言」

一、わたしたちは人間です。ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために、しっかり働きます。

一、わたしたちは人間です。みんなでしっかり学び、しっかりと話し合い、考え合い、ほんとのことをつかんで、そのために生きます。

一、わたしたちは人間です。働くことを大事にし、人間のしあわせのために一生懸命働きます。

一、わたしたちは人間です。人間にとっていちばんすばらしいことをやりとげるために、力を合わせて前にすすみます。

一、わたしたちは人間です。友人を最も愛します。ですからそのまちがいを最もきびしく、はっきり批判します。

一、わたしたちは人間です。かげでこそこそいいません。はっきりものを言い合います。

一、わたしたちは人間です。なぜ、どうしてとくびをかしげて毎日生きています。

一、わたしたちは人間です。差別は絶対にゆるさず、手をつないで生きていきます。

一、わたしたちは人間です。けっして暴力をゆるさず、それにくじけず、みんなで抵抗します。

一、わたしたちは人間です。戦争はいやです。平和を愛します。


※引用※
ヒロシマの母たちは、人類最初の核戦争によって、生きることの大切さ、命の大事さを叫びながら死んでいきました。この本のテーマである「ヒロシマの母の遺産」とは、けっして貨幣やダイヤモンドなどのような、かたちのある財産ではありません。しかしそれ以上に、はるかに重要な、たった一つの人の子の命をまっとうしようとする、母親の人間としてのたたかい、願いなのです。子どもたちを幸せにしてやりたいという親心こそ、わたしたちに、ヒロシマのあの悲惨のなかで、たったひとつ消えることなく残してくれた偉大な財産です。
(中略)

わたしたちは、人間として、その生命の尊厳をまっとうするために、子どもたちに“平和”な未来を保障しなければなりません。
(中略)
わたしは、ヒロシマの母の偉大な“愛”をすべての人間の胸に宿し、燃焼させるように、これからも訴えつづけていきます。なぜなら、人間の“愛”の灯が消えたとき、消されたとき、人類は、戦争へ、破滅へと追いやられるからです。



石田明さんは被爆後ずっと体調不良に悩まされながら、2003年に亡くなりました。享年75。


(次回は石田明さんの実姉、文子さんへのインタビューをご紹介します)

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ヒロシマ part3

前回に引き続き、
石田明さんの著書をもとにした、石田明さんの実体験をご紹介いたしますが、
読むことで心が傷ついてしまうかもしれないので、
お気をつけて、お読みください。

読むだけで心が痛くなるかもしれませんが、
これは、実際にあったことなのです。
それほど大昔ではない日本に、実際に起こったことなのです。


*******************


昭和19年(1944年)11月、石田明さんは会寧航空隊から岐阜の整備学校へ一年の留学を命じられました。
戦況はますます厳しく、食べるものも満足に与えらえず、隊内からは病人がどんどん出ました。
石田さんの任務は中古の戦闘機を整備して、特攻隊に提供することでした。
特攻隊員は石田さんと同じ16,17歳の少年飛行兵が多く、出陣の予定が知らされると、彼らは酒をあおり、軍歌の絶叫は遅くまで夜空に響いていました。

入隊して1年が経った昭和20年(1945年)5月、石田さんは体調を崩し入院します。退院後、会寧に帰隊することになりましたが、軍医のはからいで、7月30日から2週間、「療養休暇」の名目での帰郷が許可されました。

狩留家(かるが)の地に帰ると、家族は温かく迎えてくれました。

帰って6日目の8月5日の夕食の時に、お兄さんから、
「明日は工場が休みじゃけえ、宮島へ武運長久の祈願に行こうや」
と言われました。

翌8月6日の7時前、お兄さんと石田さんは狩留家駅を出発しました。
7時40分ころ、広島駅に着き己斐(こい)行き市内電車に乗り換えました。
真夏の太陽が高い日で、石田さんたちは満員電車の真ん中に入り、身動きも出来ずにいました。

的場町、稲荷橋、山口町、流川、そして八丁堀。

※引用※
”将軍”姿の仁丹の広告塔を、乗客の肩ごしに見ました。八丁堀の停留所に停車する寸前、
“ピカッ”
青白い光を見ました。一瞬意識を失いました。


石田明さんとお兄さんは、爆心地から750メートルの市内電車の中で原爆に遭いました。

二人は、乗客の真ん中にいたため、奇跡的に無傷でした。
我に返ると、たくさんの人が二人の上に重なっていました。二人は必死に車外に出て、広島駅に向かいました。

真っ暗闇の中、目にうつったのは、家や人、全てが一瞬のうちに路上から消え、炭のように真っ黒に焼け焦げて瓦礫の下に折り重なっている町の姿でした。
逃げていく2、300メートルの間に生き残っている人間を全く見ることはありませんでした。
300メートル余り行ったところで、初めて会ったのは、まっ黒く焼け焦げた小さい子供を抱きしめた、全身やけどをした母親でした。

※引用※
広い車道に 歩道に 瓦が散り 柱がさけ
電柱が倒れ その下にやわらかい
まっくろく焼けただれた人体が
今の今まで いっぱい歩いていた人たちが
声もなく
サンマの黒こげのように ころがっている
男 女 およそけんとうもつかない



8月6日夕方、広島から2つ目の戸坂(へさか)駅まで二人は逃げましたが、
石田さんは嘔吐がひどく、お兄さんに背負われて近くの農家に収容されました。
その夜、先にお兄さんは我が家に帰り、8月7日にまた石田さんを迎えにきてくれました。
家の前で棒立ちになって待っていたお母さんは、石田さんに怪我がないことを知り、安心しました。

8月8日、9日、10日と近所では被爆者の葬式が続きました。

お兄さんは弟を早く部隊に帰すため栄養をとるようにと、暑い真昼間の三篠川に行き川魚やうなぎをとってきました。

8月15日、玉音放送があり、戦争が終わりました。日本は敗戦したのです。
石田さんはお母さんの胸にすがって、「うそじゃ、うそじゃ」と泣き崩れました。

8月17日頃から、石田さんとお兄さんの毛髪が抜け始めました。
“髪が抜けるものは助からん”
という噂がありました。

お母さんは走り回り、治すためのことを全てやってくれました。

8月20日ころには、二人の体中いっぱいに血の斑点が出始めました。
二人は枕を並べて寝込むようになりました。

9月2日、昼過ぎのこと、お兄さんは隣で寝ていた石田さんの右手を左手で力なく握りしめ、
「アメリカに仇を討ってくれよ。お母さん、お父さんのことを頼むで」
と言いました。

最期まで意識が確かだったお兄さんは、
「みんな、お世話になったのう」
と言いながら、息をひきとりました。

石田さんもその後、意識を失い、生と死の間をさまよいます。
意識が戻ってからも、石田さんは病床についたままでした。
しばらくして、枕元にある手鏡を覗き込むと、右片隅に、小さい小さい光を発見します。
それは本当に本当に細い“うぶ毛”でした。
髪が抜ければ死ぬのなら、生えてくれば生きられるのではないか。
お父さんは子供のように躍り上がって喜び、お母さんの泣き声は止みませんでした。

それから少しずつ体力が戻り、昭和21年の6月頃には、優等生だった石田さんに亡くなった教師の代わりの”代用”教員になる話がきました。石田さんは小学校で高等科一年生の担任になりました。

しかし、また哀しみが石田さんを襲うことになります。


Part4につづく。



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2014-03-11 : ヒロシマ : コメント : 0 : トラックバック : 0
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ヒロシマ part2

今回、何回かに分けて掲載するのヒロシマの記事については、
私はただひたすら「伝える」ことに専念しようと思います。

実際に起こったことを、
それを経験された方のお話を、
その当時の想いを、
余計な解釈を加えずお伝えします。


二回目になる今回はインタビューを受けて頂いた知り合いの方のお義母さまの弟さん、
石田明さん(1928-2003)の著書をご紹介します。

石田明さんもまた被爆者です。

ヒロシマの母の遺産
「ヒロシマの母の遺産」 石田明著 労働教育センター


昭和19年(1944年)、
石田明さんは16歳で
少年航空特別幹部候補生に志願しました。

滋賀県八日市の航空隊に入隊することになり、5月9日、故郷の狩留家(かるが)を出発しました。

汽車が狩留家のホームを離れ始めたとき、お母さんが、
「明や、身体に気をつけよ。帰ってくるんで」
と目に涙を光らせながら隠れるように言いましたが、
石田明さんは、遠のいていく故郷を見ながら、
「もう二度と帰ってこない」
と自分に言い聞かせました。

「元気か、明、元気か」
一週間から10日に一度は届くお母さんからの手紙は楽しみにしていました。

3か月の第一期訓練を終え、北朝鮮の会寧航空隊に配属になりました。
会寧は寒さの厳しいところで、11月でも零下10度以下になることもありました。

毎日、猛訓練が続き、上官に殴られることもあり、石田明さんはある夜、その日に届いたお母さんの手紙を思い出します。

※引用※
「明、元気かい。元気でやれよ」
「お母さん。口の血が止まらんのじゃ。どうしたらええんや」
タオルで口を押えながら、ひとりでつぶやきました。月の浮かぶあの日本海の向こうにいる母を呼びながら、涙が枕を濡らしました。
「お母さん、元気じゃ。くじけるかい」
軍曹への憎しみが体じゅうにこみあげてきました。しかし母への手紙には「元気でがんばっとる」と書くだけで、文字どおり”血のにじむ”軍隊生活の痛苦はけっして書きませんでした。わたしは十六歳でも大日本帝国軍人で、立派な兵隊ですから、けっして泣いてはいけないのです。奴隷のように打たれても叩かれても、体じゅうから血が吹き出ても、弾丸が飛んできても、死ぬまで「元気だよ」と母へ手紙を出し続けるのです。
小さな”帝国軍人”は、「お母さんおやすみ」、その夜もそういって眠りにつきました。




二回目の最後に、著書の冒頭にある詩をご紹介します。
不適切な部分もあるかと思いますが、
原文のまま掲載します。

*************


ヒロシマの母

あの原爆で 八月六日
生きつづけようとする
すべての生命を断たれたとき
けっして断たれず
生きつづけた あなたの愛
その崇高な愛をわたしは
限りなく 偉大と思う
その愛 それはヒロシマの母の愛

家もろとも大地に叩きつけられたとき
広島がヒロシマとなったとき
広島の母をヒロシマの母という

ピカッ その閃光とともに
人も 家も 木も
生きつづけようとする
すべての生命を断たれたとき

太陽が投下された その瞬間
あなたは叫びつづけた わが子の姿を求めて

重い重い柱を ぐんと力いっぱい押し上げて わが子を救い
力つきて そのまま わが子の名を呼びつづけ
生身のそのままで焼け死んだ ヒロシマの母

全身やけどして 全身やけどしたわが子を抱き
わが子の名を絶叫しながら 最後の一滴のお乳をふくませて
そのまま息をひきとっていった ヒロシマの母

血まみれの体をふんばって 大きく両手をあげ
荒れ狂う猛火に立ちはだかって 家の下敷きになった子を炎から
守ろうとたたかい
そして死んでいった ヒロシマの母

ようやく 大けがをした母がけがをした子を背負い 猿猴橋(えんこうばし)の方へ逃げる
あつい火の粉にたまらず 川に入り
わが子を背負いながらおし流されていった ヒロシマの母

戸坂(へさか)の峠道へ わが子を背負ってたどりつき
「兵隊さん 子どもを助けてやってください」
道ばたで わが子を託してそのまま死んだ ヒロシマの母

息をひきとった 大やけどの子どもに覆いかぶさって
「死んじゃいけん だれか助けてやってください」
手を合わせ 泣きくずれる ヒロシマの母

ようやくたどりついた学校の救護所で
やけどのくすりを「この子にさきにぬってやってください」と哀願する
全身にやけどして まっ赤にはれあがった ヒロシマの母

「わしの子はどこじゃ」
自分のいたみも訴えず 天に叫びつづけ
道に倒れていった ヒロシマの母

まっ赤に血に染まった白いチョゴリに
焼けた子どもを抱きしめて
「アイゴーアイゴー」と助けを求めて
けが人のなかをゆく ヒロシマの母

救護所で 一つもらったにぎりめしを
わが子に食えとすすめ
子どもの掌にのこった米つぶを拾って食べる ヒロシマの母

ヒロシマの母よ
いまそのいたみを 悲しみのいっぱいを吐き出し
わたしとわたしの子を返せと
アメリカに 戦争をはじめたやつらに ぶつけるんだ

ヒロシマの母よ
あなたは原爆とたたかった
原爆は
けっしてあなたの愛を消し去ることはできなかったのだ

ヒロシマの母よ
生きているあなたの愛が
燃えさかっている
あのヒロシマの日から

ずっと ずっと ヒロシマの傷が癒え
ヒロシマが
もう ないという証がたつ日まで
それは 永遠なる愛
ヒロシマから 日本へ 世界へ 未来へ
燃え広がるのだ
にんげんの永遠のために





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2014-03-10 : ヒロシマ : コメント : 0 : トラックバック : 0
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ヒロシマ part1

広島での被爆者の方のお話を伺いたいと思った。

東北での震災が起こり、
日々、過ごしながら無力感、不安、焦燥感、どうにかしていきたいという気持ちに包まれていた頃のこと。

知り合いの方のお義母さまが被爆者で、インタビューに応じてくれるということで、
広島に行き、インタビューを実現したいと思った。

しかしスケジュールの都合など諸事情で、実現は中々叶わなかった。


ここ数か月、少し時間がとれる状況になった。

そして久しぶりに映画館に足を運び、スクリーンで映画を観た。「永遠の0」。
(映画を観たときの感想などは、コチラ→http://moon999.way-nifty.com/blog/2014/01/post-ccea.html

太平洋戦争(大東亜戦争)の映画だった。

この戦争について、ネットなどで調べるうち、疑問がわき起こってきた。
同じ戦争についてのことでも、様々な解釈がされている。
一体、どれが本当なのか?

私は前出の知り合いの方にメールした。
「一体、何が本当で、何が嘘なんでしょうか? 私たちが教えられてきたことは事実とは異なることだったんでしょうか?」

返ってきたこたえは、
『何が真実で、何が嘘なのか、いろいろな資料などを自分で見たり聞いたりして、それぞれが考えるしかないのではないでしょうか』

考えていて思いついた。
何が真実で何が嘘、などという単純なものではなくて、
きっとすべてが真実なのだと。

ひとつのことであっても、見る方向、見る人の状況によってその解釈は変わってくる。

そしてそれぞれの心で、そのひとつのことについて解釈をする、その解釈は、それぞれにとって真実なのだ。

ひとつの出来事について、
「あれは正解だった」
「あれは間違いだった」
「あれは仕方がないことだった」e.t.c.

それぞれの立場で、心境で、それぞれの解釈をするでしょう。

誰もが嘘を言っているわけではない。
それは、その人にとっての真実。


そんなことを考えながら、私は、
今こそ、広島へ行くべきなのではないか、と思った。

被爆者の方の話は今までも数え切れないほど紹介されているだろう。

でもいくつあったって、いいじゃないか。
私は私なりに、お話を伺って、それを発信する。

広島行きの予約を取ったと知り合いの方に知らせると、
「泊まるのはどこのホテル?」
と聞かれたので、ホテル名を告げた。

「えー、びっくり! それは×十年前に私が(今の旦那様と)お見合いをしたホテル!」

数あるホテルなのに、この偶然。
これはもう、やっぱり今こそ行くべきなんだ!と思った。

3月初め、私は広島に向かった。

空港からホテルにチェックインするより前に平和記念公園に向かった。

そして
原爆ドームを見上げながら、こんな音を奏でた。




ヒロシマの記事は思った以上に重く、とても一回ではまとめられないので、何回かに分けて掲載しようと思います。


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2014-03-09 : ヒロシマ : コメント : 2 : トラックバック : 0
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かしむら

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